彼岸という言葉は、古代インド語のパーラミターを「到彼岸」と訳したところから出たもので、 さまざまな苦しみの世界を「此岸」といい、この苦しみからぬけ出た、やすらぎの世界を「彼岸」 と名づけました。「到彼岸」とは、やすらぎの世界を目ざして修行することで、数多い仏教行事の 中でも最も仏教精神をふまえた行事の一つです。 しかしこの仏教行事は、仏教発祥の地インドにも、中国にもない日本独特の行事です。 これはには日本の四季が影響しているようで、先師は昼夜の長さが同じになる春秋の時を選び中日 としました。これは仏教の「中庸」「中道」(どちらにもかたよらない心、さらに、かたよらない ときめた心にもかたよらない心のこと)の精神をあらわしたもので、その前後に三つずつ計六つの 修行法(六波羅密)を配して、今流にいうと「仏道修行週間」をつくられました。これがお彼岸の いわれです。 仏教では「彼岸」に到るには先にも述べましたように六つの道「六波羅密」があると説きます。 第一の道は、布施波羅密といいまして、人のために何か善いことをしてあげること、 有形・無形の善行をいいます。 第二の道は、持戒波羅密といいまして、人として、信仰者として、ルールを守った生き方をするこ とをいいます。 第三の道は、忍辱波羅密といいまして、耐えることがまんすること、物事の本質をしっかりとおさえ その苦しみに耐えぬくことであります。 第四の道は、精進波羅密といいまして、努力すること、しかも「これでよし」とせず、さらなる向上 心を持ち続けることをいいます。 第五の道は、禅定波羅密といいまして、心を平静に持つこと、あらゆる場面に心が乱れないようつと めることをいいます。 第六の道は、智慧波羅密といいまして、単なる知識でなく、大きなみ仏のいのちの中で生かされてい る自分、仏智をさとることをいいます。 これが六波羅密の大よその意味であります。 このように述べてまいりますと「お彼岸とはえらい修行の一週間なんですネ」という声が聞こえてき そうな気がいたします。お彼岸を単なるお墓参り、お寺参りと考えておいでの方には少々やっかいな ことかも知れませんが、せっかくのお墓参りだからこそ有意義なものにとお考えいただければ先の六 つがぐっと近づいてまいります。しかも六つを全部体得しなくても、その中の一つでも「これだナ」 と納得できると他の五つも自然に理解できるものです。ここに仏道修行の妙味がありまります。墓参 の時、たとえば「精進」のことについて家族で語りあうことも意義深いことであります。ぜひおため しいただきたいと思います。 以上、お彼岸の起源をご理解いただいたところで次のお経文を拝読していだきたいと思います。 「一切の業障海は、みな妄想より生ず。もし懺悔せんと欲ケば、端坐して実相を思え。 衆罪は霜露のごとく、慧日よく消除す。このゆえに至心に、六情根を懺悔すべし」(観普賢経) |